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【訃報】フランツ・ベッケンバウアーさん~ドイツの「皇帝」~【サッカー】

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今回は2024年1月7日に死去されたフランツ・ベッケンバウアーさんについて書いていきます。

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①ドイツの「皇帝」

ベッケンバウアーさんはSCミュンヘン1906の下部組織からバイエルンの下部組織に入団。そして1964年にプロ契約を締結し主に左ウイングとしてプレーし、ゲルト・ミュラーゼップ・マイヤー等将来有望な選手と共にチームの1部昇格に貢献します。

しかし当時バイエルンは所謂「新興勢力」であり、同じ都市の1860ミュンヘンよりも実力は劣っている状態(実際1965-1966シーズンには優勝を果たしています。)。それでもベッケンバウアーさんや上述した若手選手を中心に昇格初年度にDFBポカールを制覇すると、1966-1967シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ優勝、そして1968-69シーズンにはブンデスリーガ初優勝の中心選手になる等躍進を果たします。

その後もボルシアMGとしのぎを削ってブンデスリーガ3連覇、そしてチャンピオンズカップ3連覇に大きく貢献しチームの黄金期を象徴する選手として活躍し現在の絶対的地位を確立させる礎を築きます。

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さらに1965年に初招集された西ドイツ代表では1972年にはEUROを制覇すると、1974年のW杯は第2の監督としてリーダーシップを発揮し、W杯制覇を達成します。

そしてそのピッチ上での圧倒的な存在感と卓越したリーダーシップから名付けられたのはドイツの「皇帝」。晩年は怪我に苦しみ中々思うようなプレーは出来ずアメリカ、ハンブルグでプレーし現役を引退します。

 

②選手と監督としてW杯を制覇

その後1984年に指導者に転向し西ドイツ代表監督に就任。監督のライセンスを取得していない所からの経験不足、そしてEURO1984でグループリーグ敗退を喫したように世代交代の過渡期であったことからW杯予選で大苦戦。1986年大会前の下馬評は低いものでしたが、堅実なチーム作りを行い準優勝に導きます。

そしてマテウスやブレーメ、クリンスマンなど後々の代表を支える選手達を抜擢すると、地元開催のEURO1988では優勝したオランダに敗れベスト4に終わるものの、1990年のイタリアW杯では前回大会で敗れたマラドーナ要するアルゼンチンにリベンジを果たし見事に優勝を果たし、マリオ・ザガロさん(こちらも先日お亡くなりに、、、)に次いで選手と監督としてW杯を制覇した2人目と人物となりました。

その後フランスのマルセイユを経てバイエルンに復帰。副会長や会長、時には暫定監督に就任する等、クラブの繁栄に大きく貢献。また2006年W杯招致の中心人物として同大会の成功に尽力する等、ドイツサッカー全体にも大きく影響力を与えました。

 

センターバックの価値観を変えた「リベロ

正直ベッケンバウアーさんは選手としてではなく、バイエルンの会長職の方が印象は強いです。

しかしそのプレーは現代サッカーに大きく影響を与えており、有名なのはリベロという役割。

最終ラインの中央部からゲームを組み立て、時には前線に飛び出しフィニッシュに絡む。当時守備専業だったセンターバックの価値観を大きく変えた出来事でした。

またその後もマテウス、ザマー等国内だけではなく、クーマンや長谷部等他国にも似ているプレースタイルをしている選手も出現。

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攻守共に貢献が求められる現代型センターバックの先駆けとも言える存在と言えます。

 

ドイツサッカーの為に多大な貢献を果たした「皇帝」ベッケンバウアーさん。安らかにお眠りください。

 

では