今回は2022年12月29日に死去されたペレさんについて書いていきます。
①3度のW杯制覇を果たした「サッカーの王様」
ペレさん(エドソン・アランテス・ド・ナシメント)は1956年にサントス(ブラジル)でトップチームデビュー。その後はレアルマドリードやインテル、ユベントスなど欧州強豪クラブの誘いも全て断り(国が動いたとも言われています。)、18年間もの間プレーしサンパウロ州選手権11回、リオ・サンパウロ選手権4回、タッサ・ブラジル5回、コパ・リベルタドーレス2回、インターコンチネンタルカップ2回、インターコンチネンタルスーパーカップ1回等多くのタイトル獲得に貢献しました。
ただ特筆すべきはその記録。公式戦666試合で648得点、リーグ得点王11回と驚異的な記録を残しており、稀代の点取り屋である事が分かります。
そして誰にも成しえないとも言える記録は3度のW杯制覇。1958年には当時のW杯史上最年少記録である17歳で出場。史上最年少ゴール、そして準決勝のフランス戦でハットトリック達成、決勝のボレーシュート等数々の伝説を残し初優勝。
さらに続く1962年大会では負傷に苦しむもガリンシャの活躍もあり2度目のW杯制覇。
3連覇を目指した1966年大会ではラフプレーに苦しめられ、グループリーグ敗退を喫し一度は代表を離れるも、復帰した1970年大会では司令塔としてチームを牽引。史上最強とも言われるブラジル代表を見事頂点に導き3度目の優勝を果たしました。
その後アメリカでプレーし1977年に現役引退。類稀なる技術を見せ、多くのファンを虜にしてサッカーを大人気スポーツまで押し上げた最大の功労者と言えます。
②背番号10を特別な番号に
ペレさんはまた現在のサッカーの在り方に大きな影響を与えた人物でもあります。
有名なのは背番号10を特別な番号にしたことで、これまでただ「10番目の登録メンバー」であった番号は彼が58年W杯で大活躍したこともあり、エースナンバーに。
以降はジーコ、ロナウジーニョ、ネイマール等後輩たちはともかく、マラドーナ、プラティニ、バッジョ、ジダン、メッシ等他国のエースも背負う番号となりました。
もしかしたらペレさんが他の番号を着ていたらエース番号は違うものになっていたのかもしれません。
そして競技面では選手交代制、そしてイエロー、レッドカード導入を推進させたことが主に挙げられます。
意外なことに1966年W杯までは選手交代は認められておらず、さらに警告、退場のルールも無かったので彼のようなエース格は執拗なラフプレーにより潰されることが多々あったようで、実際ペレさんも1966年大会で負傷退場。一人欠けた代表は前述のようにグループリーグ敗退を喫しました。
そのことでペレさんは「二度とW杯に出ない」と憤慨。その発言によるサッカー人気の低下を恐れたFIFAは次の大会から選手交代(当時はフィールドプレーヤー二人+GK)を認め、さらにイエローカード(警告)、レッドカード(退場)の制度を導入。
それにより彼のような悪質なタックルを喰らうことが多いプレーヤーがルールによって守られる事となり、これ以後多くの偉大なプレーヤー達が大会を彩ることとなりました。
③サッカーというスポーツを世界中に広める
正直現役時代のペレさんは過去映像でしか見たことがありません。しかし父親世代は正にど真ん中であり、翌来日された際の凄さは今も覚えているらしくそのインパクトは凄まじかったらしいです。
特に体幹の強さと広い視野、そして稀有な技術を生かしたドリブルは誰にも止めることが出来ないキレがあり多くの選手が尻もちを付いていたらしく、50年以上前の記憶にも鮮明に残っていることから彼がいかに凄い選手であるかが分かります。
前述した記録はともかく、国やルールすら動くようなプレーを見せサッカーというスポーツを世界中に広めたペレさん。どうぞ安らかに。
では