今回はACミラン所属のオリヴィエ・ジルー選手について書いていきます。
1回では書ききれない為、3回に分けていきます。
1回目はグルノーブル~アーセナル(2005~2014)時代です。
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①得点王となり奇跡の優勝を演出
ジルー選手は2005年にグルノーブルでキャリアをスタート。2年間の在籍でしたが中々結果を残す事が出来ず、2007年にはイストルへレンタル移籍。そして2008年に当時2部に上がったばかりのトゥールに移籍することとなります。
するとジルー選手はその才能を発揮して、2009-2010シーズンには21ゴールを記録しリーグドゥ得点王に輝く等中心選手として活躍します。
そして翌シーズンにはリーグアンのモンペリエにステップアップすると、新チームでも得点源として活躍し初年度から12ゴールを記録。1部でも通用する事を証明すると、翌2011-2012シーズンは前半だけで2度のハットトリックを含む13ゴールを挙げブレイクすると、チームも手塩にかけた若手選手の活躍もありチームは躍進。
結果ジルー選手は21ゴールを記録し得点王に輝くと、チームはリーグアン初優勝を果たす事に。また得点だけでは無く守備にも奔走、さらに9アシストを記録する等攻守に絶大な貢献を果たす等存在感も絶大。優勝の立役者となりました。
②大エースの影に苦しむ
そしてその功績は多くのビッグクラブに注目され、翌年2012-2013シーズンにプレミアリーグのアーセナルに移籍。得点源としての活躍が期待されました。
しかしリーグ戦では11ゴールを挙げる活躍を果たすも、前エースであったファン・ペルシはシーズン30ゴールをマーク。更にライバルマンチェスターユナイテッドに移籍後もゴールを量産し26ゴールを挙げ2年連続となる得点王に輝く等、センセーショナルな活躍をしていることを考えれば正直物足りないもので、多くの批判を浴びることとなりました。
守備や組み立ての貢献度は非常に高かったものの、当時のチーム状況を考えれば欲するのは圧倒的なスコアラー(カソルラやエジル、ロシツキー等チャンスメイカーは十分いました。)。チームが求める姿と自身のプレースタイルが合わない状況が続き、翌シーズン16ゴールを挙げるものの正当な評価はされず、大エースの影に苦しむ事となります。
③貴重な経験を積む事に
代表では2010年W杯後に就任したブラン監督により初招集されると、その後のアメリカ戦で代表デビューを果たします。
アンリやアネルカ等一時代を作った選手達が代表から去る等、時代の転換期でレギュラーに定着したい所でしたがユーロ2012、2014W杯ともにベンゼマにレギュラーを奪われる事に。
それでも途中出場や時折スタメンで起用される等貴重な経験を積む事になり、その積み上げは後に大きな華を咲かせることとなるのでした。
では
(プーマ) PUMA/17/18アーセナル/ホーム/半袖/ジルー/プレミアリーグバッジ付/751509-02
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