今回は2024年8月26日に死去されたスヴェン・ゴラン・エリクソンさんについて書いていきます。
①全盛期のラツィオの指揮官として
エリクソンさんは選手時代は故障もあり早々に指導者に転身。1981-1982シーズンに当時まったく無名だったIFKヨーテボリをUEFAカップ優勝に導き一躍注目を浴びます。
その後ベンフィカ(ポルトガル)、ローマ(イタリア)の指揮官に就任しいずれもタイトルを獲得。その後フィオレンティーナを経てベンフィカに復帰し、チャンピオンズリーグ準優勝を果たす等、欧州でも屈指の指揮官になっていきます。
キャリアのハイライトになったであろうのは、サンプドリアでのコッパイタリア優勝を評価されて就任したラツィオ時代。株式上場により莫大な資金を得たクラブはクラブのシンボルであったネスタを始めネドベドやヴェロン、シメオネ、サラス等ワールドクラスの選手を次々と獲得。当時世界最高峰のリーグであり、セブンシスターズが猛威を振るっていたセリエAで1999-2000シーズンには「最強チーム(本人談)」を率いてクラブ史上初のリーグ、コッパイタリア2冠を達成します。
②史上初の外国人監督就任
しかし翌シーズンはイングランド代表就任の噂もネックとなりチームを混乱させる要因の一つに。その後2001年1月に正式にイングランド代表監督に就任し、代表史上初の外国人監督就任となります。
当時のイングランド代表はユーロ2000でグループリーグ敗退を喫する等危機的状況にあり、ベッカムやオーウェンを始めタレントは揃っていたものの中々勝ち切れない時期が続いていました。
そんな中2002年W杯ではベスト8に進出し希望を見出すも、優勝候補と言われたユーロ2004ではベスト8に終わり、2006年のW杯もベスト8止まりに。選手の質を考えると行っていたサッカーには物足りない部分はあるものの、その前後では本大会にも進めなかった時期もあるだけに一定の評価は与えられていました。
その後はマンチェスターシティを始め、メキシコ、コートジボワール代表監督、中国のスーパーリーグのクラブ監督と様々な地域、国で監督を歴任。2019年にフィリピン代表監督を辞めた後は監督業を行っていませんでした。
③「THE・監督」
そんな中で報じられたのは今年の1月。末期ガンに犯され余命1年も無いことを公表し、欧州サッカーファンに衝撃を与えました。そして3月にはOBの親善試合にて長年の「夢」であったリヴァプールのベンチに招待され、「You’ll never walk alone」の大合唱に包まれる事に。またラツィオへ赴いた際にも勇気づける横断幕がいくつも並び、彼がいかに愛された人物であることがわかります。
若き日のアンチェロッティ監督、「鬼軍曹」カペッロ監督、そしてザッケローニ監督、当時の数ある名監督の中でもとりわけ「THE・監督」感が醸し出されていたエリクソン監督。
ご冥福をお祈りします。
では