今回はワールドカップ予選ヒストリーを書いていきたいと思います。
1回目は「ドーハの悲劇」です。
主な選手&布陣
①出足の躓きと巻き返し
1993年のJリーグ発足も控え全国的にサッカー人気が高まっている中、初のW杯出場を目指して臨んだ予選ですが、1992年に代表監督に就任したオフト監督の元攻守のバランスに優れたサッカーを展開し、アジアカップにも初優勝し前評判はすこぶる高評価でした。
しかしアジア1次予選では7勝1分で首位通過するものの出足に躓き、初戦のサウジアラビア戦でドロー、2戦目のイラン戦で1-2の敗戦を喫し暗雲が立ち込めます。
ただ3戦目の北朝鮮戦で快勝を果たすと。4戦目の韓国戦でもこれまで予選で勝ったことが無いチームに対して1-0と粘り勝ち、驚異的な巻き返しを果たします。
数字的には申し分なく勢いもあり、初出場の期待は高まっていきますが、オフト監督には大きな悩みがありました。
②左サイドバック不足
当時日本代表は替えの効かない選手が多く、選手層の薄さが度々問題になっていました。特に左サイドバックは都並選手に頼りっきりでバックアップメンバーは不在そのものでした。そんな中都並選手は左足首の亀裂骨折を負い戦線離脱し、代わりに江尻選手や三浦泰選手、最終的にはセンターバックが本職の勝矢選手が起用されました。
それでも都並選手の穴は本当に大きく、ラモス、三浦和選手との攻撃での連携、粘り強い連動した守備は終ぞ見ることは出来ず、日本の最大のストロングポイントを失ったとも言えます。
ただ代わりの選手が「あと一勝」でW杯出場が決まる所までの所まで奮闘したのは称賛すべきであると思います。
③あと一歩で、、、
そして迎えたイラクとの最終戦、日本は開始早々に三浦和選手のゴールで先制し、イラクがボールを保持し日本がカウンターを狙う形になります。
しかし後半に入るとイラクが更に攻勢に出て押し込まれると、後半10分に同点ゴールを奪われ窮地に追い込まれます。ただ後半24分にラモス選手のスルーパスに飛び出した中山選手が値千金のゴールを挙げ勝ち越しに成功します。日本はイラクに圧倒され続けるも何とか耐え時間はロスタイムになります。
現実は残酷でした。ロスタイムにショートコーナーを選んだイランに対して日本は一瞬のスキを突かれセンタリングを上げられます。そしてニアに合わせたヘディングシュートはGK松永選手の頭上を抜けゴールに。その直後に試合は終了、選手達は泣き崩れる者もいれば呆然とする者もいてその時の衝撃を表しています。日本のW杯初出場は大きすぎる「あと一歩で」失うことになりました。
当時の私はまだ幼く状況は十分理解をし切れていませんでしたが、父親が「嘘や…。」と呟きながら呆然としていたのは今でも覚えています。
しかしこの苦い経験を通して日本はフランスW杯に初出場、今やW杯出場は当たり前でベスト8進出を現実目標に出来る程発展してきました。
正にこの「ドーハの悲劇」は日本サッカーの大きな分岐点となった出来事であったと思います。
では
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