今回は現役引退&ダービー・カウンティの監督に就任したウェイン・ルーニー選手について書いていきたいと思います。
1回では書ききれない為、3回に分けていきます。
2回目はドイツW杯(2006)~ファーガソン監督最終年(2012~2013)です。
1回目はコチラ↓↓
①昨日の敵は今日の友
イングランド代表にもすっかり中心選手として定着していたルーニー選手ですが、2005-2006シーズン終盤に骨折を負ってしまいぶっつけ本番の大会となってしまいました。予選グループ2戦目から復帰するも、相棒オーウェンの大怪我(膝十字靭帯の断裂)により1トップで起用されます。その後ベスト8まで進むも、準々決勝のポルトガル戦でリカルド・カルバリョの股間を踏みつけた為一発退場、試合PK戦の末またもや敗戦します。
問題はその退場にユナイテッドのチームメイトであるロナウドが関わっていたことです。そのことでルーニー選手は大激怒、メディアからも猛烈に批判されロナウド移籍は避けられないとされていましたが、ファーガソン監督が二人をオフィスに呼び出し問題が無いことを確認し、再び共に戦うことを決めたのでした。正に「昨日の敵は今日の友」ですね。
そしてその選択が後々大きな成果を挙げることとなったのでした。
②わが世の春を謳歌する「黄金トリオ」
2006-2007シーズンはルーニー選手にとって更なる飛躍の年となります。ロナウドとのコンビ(2人で31ゴール)が冴えわたり序盤で首位に立つと、そのままリーグを牽引し初のリーグタイトルを獲得します。
そして次のシーズン、テベスを加えた「黄金トリオ」はチャンピオンズリーグ優勝、リーグ連覇を果たし「わが世の春を謳歌する」形となりました。テベス、ルーニー選手が低い位置からボールを回収、ドリブルやコンビネーションで最後にロナウドが仕留めるカウンターは当時世界最強と評されています。2008-2009シーズンもリーグを制し3連覇を果たし、チャンピオンズリーグでも決勝に進みますが、相手はグアルディオラ監督率いるバルセロナ。目の前で3冠を見届けることとなりました。
その後ロナウド(レアルマドリード)、テベス(マンチェスターシティ)が移籍し勢いが完全に失われるとルーニー選手もシティやチェルシー移籍濃厚と伝えられます。しかしすぐに契約延長を済ませると、2010-2011シーズンはベルバトフ、ナニ等と共にリーグ優勝をする(シティとのダービーマッチでのオーバーヘッド、は今でも語り草になっています)と再びチャンピオンズリーグ決勝に進出します。しかしまたもや立ちはだかったのはバルセロナ。自身は同点弾を挙げるも再び突き放され、返り討ちに合ってしまいます。
そしてこの頃からまことしやかに「ファーガソン監督勇退」が囁かれていきます。
③恩師との別れ
ルーニー選手にとってファーガソン監督は、「尊敬はするものの気が合わない五月蠅いおじさん」というイメージがあったのかも知れません。彼に度々体重オーバーを指摘され苦言も呈されていました。「父親のよう」と慕っていたロナウドとはまた違った感覚なのが面白い所です。しかしファーガソン監督が2012-2013シーズンに引退するとチームは瞬く間に迷走します。
後継者として指名されたモイーズ監督はチームを把握しきれず解任され、続くファン・ハール監督はルーニー選手が「ほかのどの監督よりも多くのことを彼から学んだ」と評価していたものの、肝心の結果をもたらすことは出来ませんでした。そんな中、30代を迎えてベテランの域に入りキャプテンも任されるようになったルーニー選手にある変化が訪れます。
では
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